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設立66周年 事業は社会のために

~ アジア航測誕生当時を物語る 津島寿一先生の手帳 ~

   

 

ここに小さな手帳があります。
黒い革表紙に昭和29年と書かれたこの手帳は、縦11.5cm横7cm厚さ1cm弱の小さなもので、ページは鉛筆書きの筆記体(英語)と達筆な草書(日本語)で埋まっています。

 

アジア航測株式会社は、この2月に66周年を迎えます。当社は戦争で荒れ果てた国土を再建するために生まれました。
誕生の発露は、かつて満州において航空測量で地形図を作成していた若い技術者たちの強い熱意に依るものです。
敗戦後、日本人による航空機の運航は禁止されました。彼らは、米軍の支配下で地図作成には不向きなB29で撮影された航空写真から焦土と化した日本の地形図を作成していました。技術的にも不満が募っていました。

いつか日本の再建のための地形図を自分たちの手で作りたい。

 

昭和27年、講和条約が結ばれて民間の飛行機が日本の、自分たちの空を飛べるようになりました。会社設立の機運はますます高まりました。
当社の芽生えはこのようにして起こったのですが、組織としての会社は情熱の集合だけでは起こりえません。


 

アジア航測“株式会社”(当時はアジア航空測量株式会社)は、冨田幸左衛門氏(設立当時:専務取締役)と津島寿一先生が創り上げました。
津島寿一といえば、最近ではNHK大河ドラマ「いだてん」で不甲斐ない1964年の東京オリンピック委員長として描かれましたが、戦前より海外からの評価も高く「ヤングツシマ」と呼ばれた国際金融の第一人者で、清廉で外柔内剛の凄腕の官僚・政治家でした。
その功績は、津島先生の追想録で当時の関西電力会長の芦原義重氏が、戦前の電力外債の処理に津島先生が全権大使となって適切な処理の仕方を用い、国際的信用が高まって、のちの電力界に再び外債導入の道が開かれたとして「電力界のかくれた恩人」と書いたことでも伺えます。

 

津島先生と冨田氏、さらに当社の6代社長である椎名佐喜夫氏は、津島先生が3代総裁となる北支那開発株式会社でともに過ごしました。北支那開発は、華北における経済開発のために国策により設立されたいわゆる持ち株会社で、現地法人や日本法人に必要に応じ、投融資しました。ここで椎名氏が津島総裁の秘書として冨田氏が総務部長として、密接にかかわりながら働き、その後も二人は秘書として津島先生が亡くなるまで献身的に勤めを果たされました。

 

冨田氏は、資金の工面も役員人事の調整もほとんどひとりで行いました。
昭和28年、会社設立に向け出資者を募るために遁走していた冨田氏に、津島先生は「電力を入れたほうが良いぞ」とアドバイスしました。

 
津島寿一先生


このころ、電力界では立て直しのために外債導入を進めており、津島先生もそれを担当されていました。また、電力9分割化を進める電力の鬼、松永安左衛門翁の動きをよくご存知でした。
その関係から、今後の日本経済を発展させるためには民間投資の他に公共的なものを加え、出発させるのが常道だろうと考え、だからこそ、これからの国土復興、経済発展に重要になってくる電力を一番に入れておくように言われたと思われます。

当時は、航空測量というものは知られておらず、出資を集めるにはかなりの困難を極めました。世界最先端の機材を導入し、日本のオーソリティとなる航空測量会社を作ろうというのだから、多額の資金が要ります。集める資本金額は5000万円。ちなみに、満州鉄道全額出資の国策会社「満州航空」は資本金50万円でした。5000万円もの出資金は戦後2番目だということです。

設立発起人、すなわち出資者の構成は、電力界を主体とし、航空、農林、建設、財界などから集めることを企画しました。冨田氏が事業計画を手に津島先生に相談に行くと、先生は出資者と金額に関する部分がブランクになっているのを見て激怒したといいます。改めて翌日朝8時前に、作成しなおした事業計画をお見せすると、「それでいいんだ!」といって忙しいにも関わらず、その場で何十通も手紙を書いてくださいました。冨田氏は感動したといいます。

様々ないきさつはありましたがここでは割愛して、とにかく発起人総代を電気庁長官の塩原時三郎氏に、創立日は昭和29年2月11日と決めました。

出資の手当ても、電力の割り当て分を除き、冨田氏が集められる分は終えました。電力分は電力界で顔の広い駒村雄三郎氏(設立当初、常務取締役)に託したのですが、もう話し合いはついていると申込書を持って行きました。それでも足りない分は津島先生が持ってくださいました。

しかし、設立総会が直前に迫ったころ、駒村氏から冨田氏に電話が入ります。
「電力の申し込みがない・・・」

社長、副社長を予定していた塩原氏と柳沢米吉氏が「電力の株がダメになった。どうしたらよいか」と津島先生に相談に行くと、津島先生は「冨田の馬鹿野郎が、そのくらいでびくびくするな。明日の設立総会は実施せい!」と怒りました。設立総会は予定通り実施しましたが、払い込み期限を2月26日まで伸ばしたため、設立は2月26日になりました。

電力関係の株式は、津島先生が自ら東京電力の社長、高井亮太郎氏にお会いし、1500万円持つようにお願いしました。高井社長が電力各社に連絡してくださって、結果的に750万円となりましたが、すでに自社で航空会社を持つ九州電力を除く、当時のすべての電力(北海道、北陸、東北、東京、中部、関西、四国、中国)が一致して参加してくださいました。

航空写真測量について説明を受ける津島氏(左) 1955(昭和30)年 当社視察 中央:津島氏、右:冨田氏

 

 

冒頭の黒い革手帳には、その記録が残っていると思われますが、どうでしょうか。
この手帳は、2018年8月に大平正芳記念財団から寄贈され、現在、国会図書館の憲政資料室で公開されています(2018.10.26公開の津島寿一関係文書)。
鉛筆で書かれた細かい文字からは、津島先生の緻密な対応と、必要を信じるその強い意思がにじみ出ているように感じました。

昭和42年、津島先生が亡くなった後、先生の持ち株は、利の少ないものであると説明したのにも関わらず、同郷で津島先生の秘書をしたこともある大平正芳元首相がそのまま意志とともに引き継ぎました。椎名氏が刊行した「拾遺雑草」には大平元首相の言葉として次のように書かれています。
「先生にとってはご自分が親しく作り上げられた唯一の会社というべきものを先生が亡くなられたからといって忽ち株式も四散されてしまうということでは、お世話になった後輩としてはいかにも忍びない(中略)損得はどうでもかまわない、唯後輩として先生の跡を継承したいということに尽きるのです」

昭和55年、大平先生が亡くなられたときには、それまで持っていなかった九州電力にも株を持っていただきました。津島先生、大平先生ともに、日本の発展のために重要な電力とその開発と運営に欠かせない航空測量を深くご理解いただき、厚く支えていただきました。

「私たちが現在継承しているアジア航測は、いわば、先人たちの努力と外部の御協力の結晶である」(二十年のあゆみ 序文 取締役社長 椎名佐喜夫)
私たちはこの言葉を胸に、人が創る新しい道、社会のために存続するこの事業に邁進してまいりたいと思います。

 

<参考文献>

・津島寿一追想録(芳塘刊行会 1972)
・二十年のあゆみ(アジア航測株式会社発行 1974)
・アジア航測誕生秘録(アジア航測株式会社発行 1980)
・拾遺雑草(椎名佐喜夫 1983)
・三十年のあゆみ(アジア航測株式会社発行 1984)

  

2020年1月23日作成
2020.01.27及び2020.02.12 内容の誤りを修正しました。


 
 
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