防災関連情報 アジア航測オフィシャルサイトへ
アジア航測株式会社
防災関連情報トップへ

地盤工学会「土と基礎」投稿原稿HTML版
1997/06/10版 この後に修正有り
速報 地盤工学会鹿角地滑り・土石流災害現地調査団報告
秋田県鹿角市八幡平における地滑り・土石流災害現地調査
Report of Landslide disasters at Hatimantai,Kazuno, Akita
  • 陶野郁雄(環境庁国立環境研究所)
  • 遠藤邦彦(日本大学文理学部)
  • 伊藤 驍(国立秋田高専)
  • 千葉達朗(アジア航測)
  • TOHNO, Ikuo (National Institute for Environmantal studies)
  • ENDO, Kunihiko(Nihon University)
  • ITO, Takeshi(Akita National College of Technology)
  • CHIBA, Tatsuro(Asia Air Survey Co. Ltd.)


1.はじめに

1997年5月11日午前8時頃、秋田県鹿角市八幡平字熊沢の澄川温泉で地滑りが発生し、澄川温泉の9棟が全壊した。ほぼ同時に土石流が発生し、約 1.2 km 下流にある赤川温泉の7棟を全壊させ、約 3.3 km 下った。しかしながら、避難勧告にしたがって、両旅館の宿泊客と従業員など約84人は事前に避難していたため、全員無事であった。  地盤工学会では、この災害について協議した結果、調査団を派遣することとなり、陶野・遠藤・伊藤・千葉の4名が現地に赴いた。調査は5月30日から6月2日まで行った。5月31日に陶野・遠藤・伊藤が、6月1日に陶野・遠藤・千葉が立入禁止区域内の調査を行ったが、伊藤と千葉はそれ以前に2回現地調査を行っていた。立入禁止区域内の調査は、日本自然災害学会と合同で調査を行う運びとなり、上記の4名のほか、梅村 順(日本大学工学部)、小森次郎・林 武司・綿貫拓野・長井大輔(以上、日本大学文理学部)、小長谷 充・藤井 亨(以上、京王コンサルタント)が両日、及川 洋(秋田大学鉱山学部)、小西尚俊(大日本コンサルタント)、近藤敏光(国際航業)が5月31日の調査に加わった。

2.地滑り・土石流災害の経緯
  1. 5月4日 澄川温泉の飲料水が濁るようになった。
  2. 5月7日 澄川温泉のコンクリート舗装の通路に亀裂が発生した。また、午後4時から9日午前7時にかけて降雨があり、総雨量は田沢湖町で 170mm、鹿角市八幡平字熊沢で 114 mm に達した。
  3. 5月9日 澄川温泉の露天風呂の基礎が壊れた。
  4. 5月10日 午前2時半に澄川温泉南側の国有林内で約35 ha に及ぶ大規模な地滑りが始まった。午後4時35分国道 341号八幡平アスピーテライン入口から玉川温泉間通行止め、同49分澄川温泉に避難勧告、5時2分赤川温泉に避難勧告が出された。6時55分には澄川温泉の約 4km下流にある銭川温泉にも避難勧告が出された。
  5. 5月11日 午前7時40分頃鹿角市の調査団が澄川温泉の宿泊棟が倒壊したことを目撃し、避難した。午前8時頃、澄川温泉で水蒸気爆発が発生し、噴煙により礫(噴石)と灰が噴出した。水蒸気爆発とほぼ同時に山津波も発生した。この山津波は、不飽和状態の温泉変質を受けた青灰色粘土から緑灰色礫や土塊の滑落と岩屑なだれによるものであった。水蒸気爆発が終了した後、表土と温泉変質した土塊(温泉余土)を含む褐色の火山灰質ロームが不飽和状態の土石流となって流下した。この際、樹木をなぎ倒し、流木と化した。さらに、飽和状態の土石流が発生し、谷を浸食しながら流下し、澄川温泉から約 1.6 km下流にある国道 341号の赤川橋を越えた。さらに、土石流は 3.3 km 下流にあるトロコの砂防ダムで止まったが、弱酸性の濁水はさらに下流域に被害を及ぼした。なお、それらの地点は図−1を参照されたい。

3.地滑りの特徴


地滑り発生前の空中写真の判読で、今回の地点に地滑り地形が認められるので、既存の地滑りが再移動したものと考えられる。  この付近は、新第三紀のグリーンタフの基盤岩の上に秋田焼山の溶岩流が累重する典型的なキャップロック型の地質である。特に、澄川温泉付近は、温泉変質の進行が著しく、きわめて脆弱な温泉余土が集中的に分布する地点であった。  今回の地滑りは、地形的に上段と下段の異なる平面形状と断面をもつ2つのブロックに区分できる(口絵写真−1参照)。上段ブロックは、幅 150 m、長さ 300 m、最大落差 60mでほぼ北方向に滑っている。一方、下段ブロックは、幅 300 m、長さ 500m 以上、最大落差 30mでほぼ東方向に滑っている。これら以外にも複数のブロックがあり、全体としては、東西 400 m、南北 800m (比高約 200 m)の大きさとなる。  地滑り地内には大小2つの窪地が形成された。一次的に融雪水が流入し、池が形成されたが、5月31日から排水作業が始まった。  また、澄川温泉背後の崖は大きく前進するとともに崩壊し、温泉付近の温泉余土とともに山津波となって下流に移動した。

4.水蒸気爆発の経緯


今回の地すべり・土石流の発生に水蒸気爆発が関与したかどうかが問題になっている。現段階ではっきりしていることは、5月11日の午前7時40分には地すべりが動き始めていること、続いて午前8時頃に、山津波と水蒸気爆発がほぼ同時に発生したことである。目撃談によれば、水蒸気爆発は15分間位続き、少なくとも2回コックステイルジェットを含む噴煙をあげ、礫(噴石)と灰を噴出した(千葉ほか,1997)。  澄川温泉旅館が位置していたあたりには、現在火口の跡と思われる直径約10mの浅い凹地が認められた(林,1997)。5月末の観察では、火口跡から噴気が立ち昇り、最高70℃の温泉が湧き出していた(口絵写真−4参照)。  水蒸気爆発に先行して地滑りが動き始めていたことは確実であるが(林,1997)、山津波の発生との前後関係が議論になる所である。後述するように、今回の流れの堆積物は3波に分類される。降灰のあった地域では、第1波の表面にのみ灰が堆積し、第2波、第3波には灰が見られない。この事実は、(1)第1波発生後に水蒸気爆発が発生した、(2)第1波の発生と水蒸気爆発はほぼ同時に発生したが、水蒸気爆発は第1波流下後も継続した、のいずれかの可能性が強いであろう。いずれの場合にも、第2波、第3波の発生は水蒸気爆発の後となる。(1)(2)のいずれかについてはさらに検討されるべきであるが、地滑りで動き出した大量の土塊が一気に下流へ突出していった山津波の発生を説明するのに、水蒸気爆発がきっかけを与えたとするのは考えやすいことである。  水蒸気爆発に伴う火山灰は、地滑りブロックの移動方向と同じである北北東方向へ、約 300m の幅をもって分布する(口絵写真−2参照)。この幅は、地滑りブロック全体の幅と調和的である。  降灰調査は澄川右岸(澄川温泉の対岸)から北東方向へ全55地点で行った。水蒸気爆発から既に20日が経過していたため、大半が樹木表面より洗い落とされていたにもかかわらず、火口から北東に 1.4 km 離れた治助崎山付近でも落ち葉の間に降下火山灰が確認された。  これらの付着方向の解析結果から、供給火口は温泉敷地内の西よりと南西よりの2から3地点あることが明らかとなった(図−2参照)。

5.山津波と土石流堆積物の特徴


今回の地滑りから発生した山津波・土石流堆積物の堆積状況から、特徴を異にする3波の流れを識別しうる。  第1波は本稿で山津波とよんだ流れによるもので、温泉変質をうけた灰〜緑灰色土塊の集合体で、巨大な土塊(メガブロック)が移動中にあまり撹乱を受けずに、例えば家屋などを上に乗せたまま滑り落ちていくような流動をしたと考えられる(口絵写真−5,6参照)。赤川との合流部から赤川温泉付近までの谷底にはしばしば巨大な同質の土塊が境界面を挟んで接しており、流れ山状の地形も見られる。黒色土壌がブロックの境界面に挟まれていることもある。こうした特徴は全体としては不飽和な流れであったことを示す。したがって、一般に岩屑なだれとよばれている現象に相当する。第1波は一部で尾根を乗り越えるなど直線的に進行する特徴を示す。後続の流れよりも厚く堆積しているが、後の第2波がより高い位置まで攻撃斜面側にのし上げているため、第2波の下に隠されていることが多い。  第2波は、暗褐色を呈し、流木や材木片を多数含む全体として均質な土石流堆積物である(口絵写真−6参照)。上記のように、谷壁部では第1波を薄く覆って斜面に張り付くように堆積し、谷底部では第1波の流れ山の頂部を削りとって堆積している。以上から第2波はかなり水を含んで流れた土石流と推定されるが、表面は極めて凹凸に富むことから、飽和状態には達していなかった可能性が強い。  第3波は、暗褐色を呈するが、谷底部にのみ比較的平坦面を形成して堆積するもので、この上を歩くとしばしば膝位までもぐりこむ、流動性の高い堆積物である。より下流側で支配的となる。第3波の堆積面は円礫に富む掃流堆積物によって浸食され、比高の小さな段丘をなす。  これらの3波の岩屑なだれ・土石流の特徴は、御岳崩壊で発生した第1波(Facies A)、第2波(Facies B)、第3波(Facies C)のそれと極めて類似する(Endo et al.,1986)。

6.温泉と水質

澄川温泉は1947年頃に湯治場として建物が建てられるようになった。湧き出している蒸気を利用して煮物をしたり、お湯を沸かして自炊している湯治客が沢山いる所である。オンドル式客室は比較的設備がよく、年々発展しており、地滑りの前には通年営業となり、4つの宿泊棟に年間1万人余の宿泊客が訪れるようになっていた。  水蒸気爆発した火口から立ち昇る蒸気の温度は約90℃であり、湧出する温泉水の温度は最高で70℃以上あり、崩壊前と変わらなかった。湧水と混合した温泉のすぐ下ではpH= 7.0、水温 37 ℃で50〜100 リットル/min 流れていた。もともと、この温泉は酸性緑礬硫黄泉であった。それに比べると、硫黄分が少なくなり、pHが高くなったように感じられた。  また、地滑りの最上部からの湧水はpH= 6.8、水温 11 ℃であり、定常的に存在する地下水が湧出したものと考えられるが、左岸側の湧水はpH= 7.2、水温 6℃であり、融雪水が涵養されて地下水となったものと考えられる。地滑り上部に湧水が溜まって池のようになっていたが、この水温は 9℃であったことから両者が混合したものと推定される。

7.あとがき

八幡平では、澄川温泉の北北東約 3.3 km にあるトロコ温泉で、1961年に地滑りが発生し、4棟が被害を受けた。さらに、澄川温泉の南東約 2.5 km にある蒸の湯温泉でも1973年5月12日裏山が地滑りで崩壊し、15棟が土砂に埋まったが、今回と同様に全員無事であった。その後、旅館は再開されたが、八幡平温泉郷の特徴ともいえるオンドル式湯治場は未だ再開されていない。澄川、赤川両温泉旅館の1日も早い再開を祈る次第である。

謝辞  

現地調査に際し、秋田営林局鹿角営林署、秋田県土木部、秋田県鹿角土木事務所、鹿角市役所、県・市・警察合同の鹿角市八幡平澄川・赤川温泉地滑り対策本部、環境庁東北地区国立公園事務所、八幡平ビジターセンター、八幡平レークインに大変お世話になった。ここに謝意を表する次第である。

引用文献
  1. 林 信太郎:地滑りが「爆発」の引きがねに?, SClaS. '97/6/20, pp.6-7, 1997.
  2. 千葉 達朗・ほか:口絵,地質学雑誌,Vol.103, No.7, 1997.
  3. Endo, K., Sumita, M., Machida, M., Furuichi, M.:The 1984 Collapse and Debris Avalanche Deposits of Ontake Volcano, Central Japan. Volcanic Hazards(J. Latter, ed.). IAVCEUI Proceedings in Volcano- logy, 1, pp.210-229, 1986.
  • 図−1 調査位置図
  • 図−2 水蒸気爆発の火口と樹木への灰の付着方向
 
< 防災関連情報トップへ ▲ページトップへ
 
お問い合わせ サイトマップ ご利用条件 個人情報保護方針 Copyright(C) 2003 Asia Air Survey Co., ltd. All Rights Reserved.