アジア航測|空間情報コンサルタント

 
HOME > 創立60周年特集
4.航空機の自社運航へ(S29)

当社の初の撮影飛行は、会社設立から約半年後の昭和29年(1954年)8月22日に行われました。海上保安庁水路部の依頼で、広島県の福山港地区および明塚線を撮影しました。

 

航空機は北陸航空から単発のデ・ハビランド・ビーバー機(JA3080)をチャーターし、カメラは水路部より借用したものでした。同年9月10日には伊豆の天城地区で、当社が購入した最新鋭機材、スイスのウイルド社製のRC5a全自動航空測量カメラを初めて用い、青木航空のチャーター機、双発のビーチクラフト機(JA5002)により撮影を行いました。
 

現在、当社では、双発機であるガルフストリームコマンダー695を2機、単発機であるセスナ208を3機、セスナ206を1機、自社保有機として運航しています。

 

 

後に最初の自社機となったデ・ハビランド・ビーバー機(JA3080)

 

 

 

 

当社が航空機を自社で保有、運航すべきだという考えに至ったのは、創業当初にチャーター機の遭難により貴重な人材を失うという苦い経験をしたことによるものです。

当社が創業して半年後の昭和29年(1954年)9月25日、青木航空からのチャーター機が遭難しました。林野庁と日本林業技術協会の依頼により、北海道支笏湖付近の国有林の風害防止対策の資料を得るための撮影に向かう途中でした。

9月25日午後4時54分に羽田空港を離陸したチャーター機は、台風15号の襲来が予想されていたため、これに先行してひとまず札幌郊外の丘珠空港に向かいました。ところが、当時の気象予報の技術や通信事情は、今では考えられないほど不十分でした。台風は予想をはるかに上回るスピードで北上したため、同機は津軽海峡から東京へ向けて引き返さざるを得なくなり、その途中での遭難でした。

この台風が、青函連絡船の洞爺丸を転覆させるなどして総計1,761名の死者・行方不明者を出した「洞爺丸台風」でした。

 

チャーター機が遭難後、大規模な捜索が行われましたが、発見されたのは、遭難から半月後の10月10日、場所は福島県会津若松市の南に隣接する楢原町(現・下郷町)の結能峠付近でした。

この事故により、チャーター機に搭乗していた乗員全員6名が犠牲となりました。当社は、当社の発起人の中心であり、撮影士のエキスパートであった幹部など、技術陣の中心的な存在となっていた2名を失うこととなりました。

この事故が、創業間もない当社に与えた人的・物的な衝撃は計り知れないものがありました。わずかながらに予定された黒字決算の目算も一挙に吹き飛びました。

 

このチャーター機遭難の苦い経験から当社は、航空機を自社で保有、運航することとなりました。当社は、経営苦境のさなかにもかかわらず、チャーター機遭難直後の12月にあえて航空機を購入しました。

チャーター機遭難の苦い経験から、安全な業務体制を確保するためには、航空機は自社で保有、運航すべきという考えに至ったのです。

 

購入した航空機は、当社初の撮影飛行の際にチャーターした、デ・ハビランド・ビーバー機(JA3080)でした。昭和31年(1956)2月には運輸省から航空機使用事業免許が下りて自社機の自社運航が始まり、昭和32年(1957)11月には、ビーチクラフトC185双発機(JA5032)を購入しています。

その後、自社保有機による安全運航の体制は、その後の当社の発展につながりました。

昭和34年(1959年)の伊勢湾台風では、赤外線航空写真による被災状況の緊急災害撮影を行っています。

 

それ以降、当社は自社航空機を保有、運航し続けています。当社では、安全管理を徹底して災害発生時の緊急撮影にも対応できる体制をとっています。


自社機(八尾運航所にて)

左から:セスナ208(JA11AJ)、ガルフストリームコマンダー695(JA8600)、セスナ208(JA8229)

   
 

★ ホームページで自社機を紹介しています。

http://www.ajiko.co.jp/product/detail/ID4T4553HZT