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1. アジア航測の創業(-S29)

昭和20年(1945)8月、終戦を迎えた日本は、GHQ(連合軍総司令部)の占領下におかれていました。占領下の日本では、航空写真用の機材は「兵器」とみなされ、そのほとんどが米軍に没収されました。また、日本の航空機が空を飛ぶことも許されていませんでした。当時、戦災復興に必要な地図は、戦時中の米軍の航空写真を使用し、旧式の機材で作成していましたが、精度は低く、不満の声が強いものでした。

昭和24年、測量法が公布され、戦後日本の測量体系が確立されました。昭和26年にはサンフランシスコ講和条約が締結され(発効は翌年)、日本はようやく自分たちの手で航空機を飛ばし、思い通りに航空写真を撮り、地図をつくることができるようになりました。
 

創立総会(昭和29年2月26日)
さて、当社の創業は今から60年前、昭和29年(1954)2月26日です。

当社発足への動きが起こったのは、その1年半前、昭和 27年の夏の終わりごろのことでした。偶然、横須賀線の車中で通勤途中の2人の人物が出会い、航空測量会社設立の夢を語り合ったことが始まりでした。ひとりは元海軍航空参謀中佐、もうひとりは戦前南方航空に勤務していた、新宿の写真店主。2人が帰路の車中で語り合った話は、ほどなく志を共にする航空測量技術者の間に広まっていきました。彼らはたびたび集まって情報を交換し、社名も「アジア航空測量株式会社」と決めて、会社設立への情熱を燃やしました。

 
 

会社設立となると、リーダシップをとるマネージャと資本が必要でした。

そこに経営面を配慮する協力者が現れました。当時、元大蔵大臣津島寿一氏の秘書だった冨田氏(元最高顧問)は技術者らの若さと熱意に打たれ、会社設立のため本格的に活動を開始することになりました。

 

資本金は5000万円。最新鋭の機材を輸入して導入するために必要な費用でした。

このころ設立された会社の資本金は数十万円までというのがほとんどでしたので、5000万円という、当時としては戦後2番目の規模の資本金を集め、外国の機材を導入しようというのは、世間からみれば大冒険であり、時には狂気の沙汰のように受け止められました。当然、出資者は現れては消え、消えては現れる、困難な道のりでした。そんなとき、ある会社社長のように、経過を説明して○○万円の出資がほしいというと、1分間考えてポンと出資してくれた人もありました。

 

 

津島寿一氏の支援は当社の創業に大きな力となりました。

津島氏のアドバイスにより、電力関係からも出資の約束を取り付けることができました。

当社の事業構想は、当時「電力の鬼」と呼ばれた松永安左衛門氏の心を動かし、東京電力㈱、関西電力㈱、中部電力㈱など、電力8社からの資本参加を得ることが できました。最後に残った1000万円近い出資金の不足は、津島氏が引き受けて頂き、ようやく出資金を集めることが出来ました。

津島氏がこのように新会社設立のために物心両面にわたって援助を惜しまなかったのは、荒れ果てた国土の再建のために、精密な航空測量の仕事がいかに重要であるかを認識していたからこそです。それは、何度も挫折しそうになりながら、困難な準備作業を進めてきた他の関係者すべてについてもいえることでした。

航空写真測量について倉持研究員の説明を受ける津島氏
 

かくして、昭和29年2月26日に創立総会が開かれ、アジア航空測量株式会社が正式に発足しました。本社は東京都港区田村町5-4。塩原時三郎取締役社長をはじめとする役員12名、社員20名、合計32名でのスタートでした。

 

会社設立を報じる当時の新聞記事(朝日新聞 昭和29年2月11日版)には、「精密な地図を作るために必要な航空写真の撮影とその地図化を専門とする新商売が生まれる。」「自動航空写真機や航空写真をそのまま地図に直せる自動立体精密図化機を使い、地上測量の約10分の1の費用でやろうというもの。」と記載されています。